
会社から家へ帰る足取りが重かった。
もん太のいない家。
いつも玄関先でごろごろしていてドアが開くと外に行こうとしていたもん太。
いきなり飛び出る心配のないドアは重かった。
夕飯を食べながら主人がリビングの中のレイアウトを少し変えようか、気分転換に。と言い出した。
確かにこのままだとこの位置にもん太がいるはず、と定位置を都度確認してしまう。
いいかもしれないね。でも、そうするとこの入り口が狭くなっちゃうかな。。
そうか。ちょっと考えるか。そうそう、百日法要がねあるんだって。そこまではいっぱい悲しんでいいんだって。
今は四十九日が主流で百日法要はあまり日の目を見ない。
もん太のお骨、パウダー状にするともっとコンパクトになるらしいから、そうしてリビングに置こうか。
言われてとっさに何かのイベント後がいいんじゃないと自然に言葉が出た。
そうだね、四十九日の時にでもするか。
そうか。四十九日までは感傷的になっていい。
パウダー状にして、百日までもん太の思い出にどっぷり浸ろう。
そう思うとなんだか少しほっとした。今年の年末まで心いくまでもん太のことを想っていい。
もん太は自分のことは何でも自分で決めた。寝るところ、食べるもの、食べる時間、甘えたい時間、一日の家中のパトロールの順番。
我が家に来ることに決まったのも彼がペットショップのゲージ越しに一生懸命に私の目を覗き込んできたことからだ。彼が我が家に来ることを決めた。ぼく、行くよ。その時、その目からそうメッセージを受け取った。
そして最後の時間を決めたのも彼自身、そう思っている。
もういくよ、じゃあね。なくなる少し前から私は彼のメッセージを受け取っていた。
ペットというより、家族の一員。いや、ソールメイト。家に来る前から今も心がつながっていると信じている。
なので、人間の法要を適用するのは全く異論がない。
無神論者だが、こうしたイベントは古来より人の心に合わせた形で営まれているので、言い方を選ばなければうまく利用して、心を落ち着かせるのにいい。今年いっぱいは、存分に家のあちこちにもん太の影を探そう。
もん太、お休み。また明日ね。