
会社での会話は、まるでボールドのゴシック体で書かれた文章を読み合わせているようだった。 ストレートで、率直で、効率的。 それが好まれる空気の中で、私はふと立ち止まっていた。
会話って、本当にそれだけでいいのかな。 言葉の奥には、背景があって、奥行きがあって、沈黙やふとためらう表情にすら意味を持っている。
それは、去年取得したキャリアコンサルタントの学びから、確信に近い気持ちとして私の中に根づいている。
今、私は大学に在学中(休学中)で、栄養について学んでいる。 健康を支える知識を得て、誰かのwell-beingに役立てたいと思った。 学んだことを私なりに発信できたら——そんな思いもあった。
でも、学びを深めるほどに、言葉が遠くなっていく。 専門的すぎて、自分の言葉で語れない。 著作権の壁もあって、伝えたいことが伝えられない。
「学んだことを発信したい」と思っていたのに、 いつの間にか「発信できない自分」に戸惑っていた。
そんな中、最近、うちの子を描いたり、葛飾北斎の絵に心を奪われたりすることがあった。
「素敵だな」と思った。
その“素敵”を、もっと深く掘り下げて、自分の言葉で表現してみたい。 そう思ったとき、ふと「詩」という世界が浮かんだ。
詩は、言葉の余白を大切にする。 伝えすぎず、でも確かに伝える。 それは、私が会話に求めていたものと、どこか似ている気がした。
今の大学をどうするか、まだ決められない。 新しい道に進む自信も、まだない。
でも、こうして言葉にしてみることで、 「まだ名前のない気持ち」が、少しだけ輪郭を持ちはじめた気がする。
決めないことは、悪いことじゃない。 それは、根っこを探している時間なのかもしれない。
言葉にできない想いこそ、いちばん深く息づいている。















